ミャーク、宮古的な心意気、響きを皆さんと分かち合う

久保田麻琴(原案、監修、出演)

第二回:映画製作のきっかけ

~最初は麻琴さんが一人で始めた宮古の神歌録音がどのように映画にまで発展していったのでしょうか?


「東京の夏音楽祭」という大きな音楽祭があって、2008年に長崎の神楽の6時間公演を草月ホールで行ったんです。その時に音楽祭のプロデューサーに「宮古島の神歌」のCDを渡したら、半年くらい経ってから「来年はこの公演をやりましょうよ」と言ってくれて。ちょっと信じられなかったね。
 でも、西部の90歳のおばあちゃんたちをどうやって連れてくるの? それは無理だろうと。それを本人たちに確かめたら、「行くぞ!」と(笑)。まさかそう言うとは思わなかった。歩きはするけれど、車椅子が必要だし、念のためにご家族にも付いてきてもらった。その上、東京では宮古の同じ村出身の看護婦さんを付けて、総勢30名くらいになった。その時に、監督の大西君に記録を撮ってくれと頼んだのが最初ですね。
 その前から私は誰かが宮古に同行して撮影してくれないかなと思っていた。すると、大西君はその前年に宮古に観光旅行に行っていたんだ。だから何か感じるところがあったんでしょう。東京の夏音楽祭での三日間の記録を全部残してから、それを映画に仕上げていきましょうということになり、音楽祭が終わった後も大西君は一人で何度も宮古に行った。向こうの人はそういう場合のネットワークが良いからバッチリ協力してくれて、私以上にもっと密着したんだよ。お祖父さんと一緒に砂糖キビを刈ったり、ずっと付いて回ってね。そういう流れでなんとか2010年の暮れには形が見えてきて、2011年の頭に完成した。そしたらラッキーにもスイスのロカルノ映画祭が上映したいと言ってくれた」


~ロカルノ映画祭ではどのような反応があったのですか?


「ロカルノでは7本の映画が候補となり、ヨーロッパ人の監督6人にアジアから大西君1人だけ。そういう中で上映されて、タイトルバックが流れ終わるまで拍手が止まらなかったんだ。40代、50代のスイス人女性が結構エモーショナルに反応してくれた。草月会館で行った最初のコンサートの時のような、なんというか理屈を越えた強い感情。最初から最後まで泣いている女性もいた。
 それはまさしくわたしの目指したところで、主役はあくまで「神歌」であり、「響き」。話し声や波の音まで含めて、もう映画全部が「歌」であったほうが良い。その音を作るのに作業が一ヶ月かかりました。低予算映画なので録音班がいなかったんです。ソニーのビデオカメラについているマイクで録音していたから、実は全編に風の音が入ってしまっていた。それをプロトゥールズを使って除去することから始めました。
 実は私の生まれた実家は石川県で町の映画館をやっていて、私はそこで育った。だからその頃に映画館で聞いた音の衝撃があるんですよ。最近の日本映画は予算を削られまくって音にこだわれないし、テレビが入ってから日本人は視覚偏重になった。目で見えていて、言葉で語っていれば十分だと思っている。でも、1962年くらいまでの日本映画はそうじゃなかった。当時の東映、東宝の社長たちは音にも真剣だった。
 それを知っているから、今回もいくら元の音が状態が悪かろうが、「音で勝負する!」と思っていました。音楽家の自分が映画に関わるなら、音で伝えたい。だからこれが一石を投じたかどうかはわからないけれど、映像に対して縁の下の力持ちになったんじゃないかな。ロカルノ映画祭で外国人のオーディエンスが感動したのはその部分が通じたのかもしれない」



聞き手:サラーム海上