ミャーク、宮古的な心意気、響きを皆さんと分かち合う

久保田麻琴(原案、監修、出演)


 
~映画の中でも麻琴さんと宮古島の出会いが語られていますが、たった五年の間にすごくディープなところまで入っていかれたんですね。
 
「2007年に初めて訪れるまでは宮古のことをまったく知らずにいたんです。そこで色々と調べていくと、明治35年まで300年近く続いていた人頭税の事を知り、谷川健一先生の「沖縄の辺境:時間と空間」を読みました。島の人もあまり読んでいる人はいないですよ。税というとお金を納めればそれでいいんだろ?と思われがちだけど、そんな甘いもんじゃない。琉球藩、薩摩藩への上納を増やすため、無理矢理未開の島に行かされ、畑を耕せという世界。家族の中で一番強い男がジャングルのような所に開拓しに行く。そういう奴隷制のような人頭税がたった110年前まで存在した。我々はアメリカのブルースの歴史や黒人奴隷の歴史については知っているけれど、実は日本にそれに負けないくらい不条理なものがあった。それを知って、すごいショックを受けたね。そういうことがわかってくるのと同じタイミングで、おばあたちが、神歌を残したいから、私たちが歌うから録音してくれていいよと言い出した。色んなことが私の前に怒濤の如くのしかかってきたんです」
 
~祭祀は沖縄では既に失われていたのに、宮古には残っていたと?
 
「1978年に沖縄の久高島で最後の祭祀が終わったと伝えられ、いわゆる沖縄の民間祭祀、地元の宗教はなくなったものと思っていたんですよ。しかし、宮古を訪れて、衰退しているとはいえ、まだまだしっかりと残っていることを知ってビックリしました。しかも、祭祀が全て歌で行われている。私は音楽家ですから、歌と聞いたら黙っていられない。おばあたちのドアを一軒ずつ叩いて聞き込みを始めました。
 同じ頃、宮古の民謡にも出会いました。沖縄民謡ほどは知られていないけど、実は名曲がいっぱいあって。沖縄よりももっとおおらかと言うか、インドシナや北アフリカの音楽のような独特の日向っぽい響きが入っている。そのうちに本業はサトウキビ農家だけど常にバリバリ歌っているおじいさんを見つけたり、1970年代にそういう人たちを録音したカセットテープやレコード盤がポロポロと出てきた。それらをCDにまとめたくて、録音した人を探しに探しました。すると元々は演歌歌手で、興行師でもあった奥原初男さんという人が沖縄の老人介護施設でひっそりと見つかった。彼は島の事を思って、録音機材を船に積んで帰って、自分なりに録音したんだよ。それが何十曲もある。どれも信じられないくらいイイ音で録音されている。彼は既に施設で寝たきりだったので、彼の妹さんを通して契約して、それらの音源が映画の中に沢山使われているんです。今は彼も妹さんも亡くなってしまったけれど……」

 
~最初は麻琴さんが一人で始めた宮古の神歌録音がどのように映画にまで発展していったのでしょうか?
 
「東京の夏音楽祭」という大きな音楽祭があって、2008年に宮崎の神楽の6時間公演を草月ホールで行ったんです。その時に音楽祭のプロデューサーに「宮古島の神歌」のCDを渡したら、半年くらい経ってから「来年はこの公演をやりましょうよ」と言ってくれて。ちょっと信じられなかったね。
 でも、西辺の90歳のおばあちゃんたちをどうやって連れてくるの? それは無理だろうと。それを本人たちに確かめたら、「行くぞ!」と(笑)。まさかそう言うとは思わなかった。歩きはするけれど、車椅子が必要だし、念のためにご家族にも付いてきてもらった。その上、東京では宮古の同じ村出身の看護婦さんを付けて、総勢30名くらいになった。その時に、監督の大西君に記録を撮ってくれと頼んだのが最初ですね。
 その前から私は誰かが宮古に同行して撮影してくれないかなと思っていた。すると、大西君はその前年に宮古に観光旅行に行っていたんだ。だから何か感じるところがあったんでしょう。東京の夏音楽祭での三日間の記録を全部残してから、それを映画に仕上げていきましょうということになり、音楽祭が終わった後も大西君は一人で何度も宮古に行った。向こうの人はそういう場合のネットワークが良いからバッチリ協力してくれて、私以上にもっと密着したんだよ。お祖父さんと一緒に砂糖キビを刈ったり、ずっと付いて回ってね。そういう流れでなんとか2010年の暮れには形が見えてきて、2011年の頭に完成した。そしたらラッキーにもスイスのロカルノ映画祭が上映したいと言ってくれた」
 
~ロカルノ映画祭ではどのような反応があったのですか?
 
「ロカルノでは7本の映画が候補となり、ヨーロッパ人の監督6人にアジアから大西君1人だけ。そういう中で上映されて、タイトルバックが流れ終わるまで拍手が止まらなかったんだ。40代、50代のスイス人女性が結構エモーショナルに反応してくれた。草月会館で行った最初のコンサートの時のような、なんというか理屈を越えた強い感情。最初から最後まで泣いている女性もいた。
 それはまさしくわたしの目指したところで、主役はあくまで「神歌」であり、「響き」。話し声や波の音まで含めて、もう映画全部が「歌」であったほうが良い。その音を作るのに作業が一ヶ月かかりました。低予算映画なので録音班がいなかったんです。ソニーのビデオカメラについているマイクで録音していたから、実は全編に風の音が入ってしまっていた。それをプロトゥールズを使って除去することから始めました。
 実は私の生まれた実家は石川県で町の映画館をやっていて、私はそこで育った。だからその頃に映画館で聞いた音の衝撃があるんですよ。最近の日本映画は予算を削られまくって音にこだわれないし、テレビが入ってから日本人は視覚偏重になった。目で見えていて、言葉で語っていれば十分だと思っている。でも、1962年くらいまでの日本映画はそうじゃなかった。当時の東映、東宝の社長たちは音にも真剣だった。
 それを知っているから、今回もいくら元の音が状態が悪かろうが、「音で勝負する!」と思っていました。音楽家の自分が映画に関わるなら、音で伝えたい。だからこれが一石を投じたかどうかはわからないけれど、映像に対して縁の下の力持ちになったんじゃないかな。ロカルノ映画祭で外国人のオーディエンスが感動したのはその部分が通じたのかもしれない」

 
 
〜神歌の東京公演では、神歌を初めて聴くにも関わらず、多くのリスナーがおばあたちの歌声を聞いた瞬間に涙を流していました。
 
「司たち(神事を司る女性)は祭祀を始める一年前にくじで任命されるのですが、彼女たちは自分が司に任命されることを事前に夢で見ていたと言うんです。まるで南アジアかアフリカの民話のような世界。そして一年のうちにプロのお坊さんか神主のように何時間分もの歌を暗記する。今でこそノートに書き込んで覚えるけれど、10年、20年前までは全部口伝えで覚えたというんです。とても信じがたい人間の能力です。
 明治になり、宮古は日本の一部、沖縄の一部になり、戦争もあり、米軍も入ってきて、日本に復帰もした。そして土建屋が来て、橋や道が出来て、テレビもクーラーも入ってきた。それでも何かが残っている。我々には信じられないような神秘的な儀式や、古代の神話の世界だと思っていたことが今も人の心に残っている。インターネットもスーパーマーケットもある現在の宮古に残っている。それこそ宮古のキモだと思うんです。私はこの四年間、宮古に足繁く通い、宮古のために何かしたいと突き動かされたのは、このことを広く知らせたかったからです。
 それともう一つ、宮古の言葉の中には万葉時代、上古代の日本の言葉の含有率がとても高いんです。するとおそらくその頃のヤマト的、日本的な心が宮古には残っているのではないかと。もちろん地理的に中国とも近いし、海を行けば台湾、フィリピンまで行ける場所なのでアジア的な要素も相当あると思いますよ。池間の人々を見ればわかるとおり、普通の日本人よりも身体も大きいし、顔も濃い。しかも気も強い。きっと色んな漂着なり、混血なりがあったはず。それと同時に古い日本性が残っている。このことに対する驚きというか、切なさというか、サウダージ(郷愁)を感じたんです。逆に言えば、日本も2000〜3000年の歴史の中では色んな漂着があり、原住民的な要素もあったはず。我々が正しい歴史だと教え込まれていることは奈良時代以降のたかだが1500年くらいのものでしょう。もし日本列島と日本語の歴史を考えれば、我々はほんの一部しか知らないということになる。私が宮古にたどり着いたのは、誰も教えてくれない、そういうところに手を突っ込んで自分で触ってみたかったという希求があったからです」
 
〜映画の中でも、教科書では伝えられなかった歴史がおばあたちの言葉と歌声によって語られていると思います。
 
「ミャーク、宮古的な心意気、響きを私も学び、皆さんと分かち合うということが重要な気がします。日本はこれまでアジアをリードしてきたはずなのに、今や負け組っぽくなっていて、その上負けていることにも多くの日本人は気づいてもいない。同じく負けているアメリカやヨーロッパだけを見ているからね。でも、負けは試練でもあると思うんだよ。ここで「ミャークネス」、「ジャパンネス」をどう出すかが重要だと思う。宮古は300年近く奴隷制が敷かれていたんだよ。士族が奥さんや娘を寄越せと言ったら、島民は差し出さなければならなかった。そんなバカな話、奴隷時代のアメリカの農園でもなかったと思う。酷い理不尽が長年彼らを縛りつけた。その中で彼らは祈り、自分たちのDNAを鍛えたんだろうな。(黒人奴隷の末裔である)ジャマイカ人が逆説的なエリートと言われるのと同じ意味で、宮古人はエリートだよ。
宮古人は小さな穴から世界を見て、世界の問題を感じているよ。彼らはそういう体験を300年近くもしていたんだから。そしてミャークという大きなコスモロジーを持っていた。しかもそこには霊的なシャーマンがいるんだ。こんな小さな6万人の島にだよ。こんな島が世界のどこにありますか? 
 私はその宮古の脈々と続く「響き」を預からせてもらった。この宝箱はとても大きいですよ。皆さんとシェアすれば宮古の宝はもっともっと大きくなると思うんです」
 
 
聞き手:サラーム海上 2012年7月5日 池尻大橋 太陽にて