歌の始源への旅

中島 渉(作家・ジャーナリスト)

ひとはなぜ唄うのだろうか。
 
 宮古島にいまも生きる古謡や神歌を追った『スケッチ・オブ・ミャーク』を観ると、どうしてもそのことを問いかけることとなる。これまで歌を求めて世界各地を旅した久保田麻琴さんが出逢い、それに共鳴した大西功一さんによって記録された類い稀なドキュメンタリィ映画だ。

 ウタという語の背後に「うったふ(訴ふ)」を見たのは折口信夫だった。誰かになにかを伝えようとするとき、それはウタとなる。また、ウタは「うつ(打つ)」から来たとする説もある。魂が激しく揺さぶられたとき、そこにウタが生まれるのだ。「うつ」は「うつろ(虚ろ)」にも繋がるだろう。器であるひとが感動や大いなる事態に出会したとき、ひとは唄う。

 折口の師でもあった柳田國男が『海南小記』に記したことをきっかけに、宮古島にある143センチほどの高さの石が「人頭税石」とされるようになった。この石を超える身長になると税が課せられる、というものだ。事実ではなく、宮古島の人頭税は年齢による。だが、宮古島のひとびとが重い税に苦しんできた歴史は消えない。

 過酷な労働のなかで、ひとびとは苦難を忘れるために歌いはじめた。それは北米のブルース、あるいはジャマイカのレゲェと同じだ。宮古島の古謡や労働歌には、ブルースやレゲェに共通の香りがある。一方、神に捧げるために、神と会話するために、神を求めて……歌ははじまったのかもしれない。神歌はまさにそうだ。『スケッチ・オブ・ミャーク』はそんなことを考えさせてくれる。

 畏友・久保田麻琴さんを宮古島が喚んだ。彼は宮古島に生きる古謡や神歌を採取して歩いた。その過程で、素晴らしい歌群が絶滅の危機に瀕している現状が浮かび上がる。映像作家の大西功一さんはカメラを回した。宮古島の歌群に出逢ったとき、久保田さんの魂は震えたという。その衝撃は映画『スケッチ・オブ・ミャーク』でも存分に伝わってくる。老婆の唄う古謡、女性たちの唄う神歌、農夫の唄う労働歌……これほどまでに豊かな世界があったことへの衝撃、そして不思議な懐かしさがわたしたちの胸を衝つ。

 沖縄本島や八重山地方も豊かな歌を育んできた。だが、宮古島の歌群はそれらとはまた異なる輝きをもつ。その古謡や神歌を聴くと、どこか古代以前の光景が眼の前に展がるような感覚にとらわれる。本島における『おもろそうし』のような文学はない。その代わり、口承による豊かな歌群が残った。しかも、危機に瀕しているとはいえ、歌は日々の生活に寄り添いながら唄い継がれてきた。

 ツカサンマ(神司)は神に選ばれた女性たちだ。彼女たちは自身の運命を予知し、そして受け容れる。興味深かったのは、彼女たちが聖域に向かうときや、神事を執り行うときの所作だ。本島や八重山地方のカミンチュたちは、両掌で無限記号を描くように動かす。これはじつは北のアイヌのひとびとが行う所作にもひじょうによく似ている。けれども宮古島ではじつにシンプルだ。シンプルさは強さでもある。古謡や神歌に横溢する強さと同質だ。

 宮古島を訪ねると、そこが平坦な島であるのに驚かされる。平坦さゆえに、台風が暴れると甚大な被害をもたらす。川も無いため、反対に台風の来ない年は旱魃となる。平坦さはけっして優しさではないのだ。とりわけ戦後の20年間で、宮古島の緑は半減したとされる。水はとても貴重で、遊水池は聖域となったことが『スケッチ・オブ・ミャーク』でもうかがえる。

 ところで宮古島市のシンボルはスイジガイだ。6本の長い突起があり、それが漢字「水」を連想させることからスイジガイと呼ばれる。火難避け・魔除けとして機能する。だが、宮古島でスイジガイを吊った玄関先を見るのは稀になった。歌もまた、消えてゆくのかもしれない。だが、ミャークのひとびとは歌を伝え、歌い継ごうとする。

 歌は神への捧げものであると同時に、神からわたしたちへの贈りものでもある。そして『スケッチ・オブ・ミャーク』そのものがひとつの歌なのだ。